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りゅーかんの高専キャリア教育論

高専生の価値、高専生のキャリアについて議論するためのブログです。

【秋田高専 機械工学科 ‘72年卒業】【大手重工、中小企業も経験し、55歳でフリーランスに】

高専卒業生のリアルなキャリア

執筆:2016年5月(畠中豊:64歳)

高専に入ったきっかけ

中三の時父親に末期のガンが見つかり、どうやら長くないと診断された様でした。母親が、担任に相談したらしく、進路相談では高専進学を進められました。自分では特に進路を考えては居ませんでしたが、機械いじりが好きだった事と、何しろ授業料が高校より安いと言われて決めました。学科は迷わず機械でした。受験勉強は一切しませんでしたが、担任がくれた業者テストは真面目に解いていた様な気がします。

高専5年間、こうやって過ごしました

高専には県内からそれなりの成績の学生が集まりますが、入学時はどうやら上位の成績で入れた、と後日担任から聞きました。4期生で、まだ学科はM,E,Cの三つしかありませんでした。

入学後、機械加工や鋳造など実習はやたらと楽しかったのですが、座学はつまらなく感じ、前から二番目の席ながら常に机に突っ伏して寝ていた様な気がします。従って、成績はガタ落ちで、常に赤点スレスレの低空飛行をしていた様な気がします。特に、材料力学や流体力学など公式や計算式が多い科目は大嫌いで、試験の前夜さえ教科書を開くのを避けて暮らして居た様な気がします。一方で、「語学ラボ」大好きでした。

1年生の夏休み後、父親が他界しましたが、家業は姉が婿殿を迎えて継ぐ事になり、経済的危機は回避できた様でした。部活は、ひどく弱いラグビー部で、ラグビー王国の秋田では高校の二軍とやっても勝てない程でした。まとまった休暇は、バイトか自転車旅行や周遊券も併用したヒッチハイク旅行に明け暮れました。宿は野宿やテント泊で少しお金があればユースホステルでした。

3年生の時にはパチンコにハマり、学校がますます面白くなくなってしまい、ドロップアウトしかけました。同じ中学から入った相棒と語り合って、中退してアメリカのどこかの牧場で働いて、でっかく生きようと毎晩語り明かしたものでした。その時の相棒Kは、実際に3年で中退してしまいましたが、その後マスコミに登場した時は、なんと米国の大手IT企業である○○○システムズの上級副社長まで上り詰めた大物になっていたのでした。紆余曲折はあったのでしょうが、彼は初心通りアメリカでビッグになったのです。残念ながら、50代で早逝してしまいましたが・・・。

一方、こちらはと言えば、結局母親に泣きつかれて、中退は思いとどまり、その後曲がりなりにも就職内定を貰った事もあり、落第スレスレの成績ながらなんとか「卒業させて貰った」のでした。

選択した進路とその後のキャリア

就職試験は1社しか受けませんでした。「陸海空に伸びる総合重工業」というキャッチフレーズに引かれ、単車も好きだったのでK重工に絞って受けました。試験が上手く書けたと言う記憶はありませんが、たぶん体育会系の部活動をしていた事と、面接では設計ではなく現場を希望すると伝えたのが良かったのでしょう。先輩は居ませんでしたがあっさり合格したのでした、その頃各重工は日の出の勢いだった事もあり、同期の学卒・高専卒は360名も居たのです。

キャリア①造船時代

入社後配属されたのは、造船部門でした。中でも、修繕船部門という、やや特殊な職場でした。自社で建造した船舶はもちろん、他社の建造船の修繕も引き受けている様な職場でした。入ってくる船舶の約半数は外国船であり、英語は好きながらあまり流暢でありませんでしたが、「習うより慣れろ」ということで、どうにか英語でのコミュニケーションは出来る様になっていきました。1年後、より大型の船舶を扱う四国にある造船所に転勤になり、その後の10年を油にまみれて「修繕船担当技師」として過ごしました。今にして思えば、この時の経験が、今も自分の貴重な肥やしになっていると振り返っています。船舶には、およそ考えられる種類の機械の殆どが搭載されており、その劣化や故障や事故を目撃し、修理法案を立てて船主と話し合う中で、知らない間に工学的知識もコミュにケーション能力も磨かれていった様な気がします。

プチドロップアウト①風車屋になり損ねる

30歳を少し超えた時、世の中はオイルショック後のデプレッションに掛かっていた時期で、人員整理も行われました。何故か、その時は突然環境問題と再生可能エネルギーに目覚め、「風車屋」への脱皮を志したのです。当時東京にあった、風車のベンチャー企業を見つけて、押しかけ面接をして貰い、その後数か月は週末に夜行列車で東京に通い、活発に舞い込んでいた引合いレターへの返事書きなどを手伝っていました。どうやら飯も食えそうだったので、妻を連れて東京へ引っ越しをする準備を始めたのでした。しかし、当時二人目を妊娠中だった妻は、その事を知らずに団地の運動会に出てしまい、その晩に突然切迫流産で緊急入院・絶対安静になってしまったのでした。足止めを食らって、数か月間退職と引っ越しを延ばし延ばしにしていたら、ある日突然ベンチャー企業の社長から電話が入り、引合いがピタリと止まったので、会社を畳むと通告してきたのでした。考えてみれば、その時期は「逆オイルショック」に差し掛かっており、石油の値段が下がってしまい、再エネには逆風が吹き始めていたのでした。

キャリア②航空機時代

会社には既に辞表を出していましたが、入院騒ぎでぐずぐずしていたら、辞表を握っていた上司が気を効かせてくれ、官需(F-15やT-4やCH-47やB767など)や民需で忙しくなり始めていた航空機部門への転勤を推薦してくれたのでした(感謝)。まさに渡りに船で、やっと安定期に入った妻を伴って、岐阜県にある航空機工場へ転勤したのでした。33歳になっていました。

航空機事業部では、生産技術部門に配属され、モノ造りのA to Zを学びました。何しろ、航空機のモノ造りは原理原則に忠実で、完ぺきなトレーサビリティも求められるからです。自分の書いた工程票通りに部品が作られ、組立てられて空を飛ぶのですから責任も重大です。しかし、この時代の仕事ぶりは、まるでカメの様で、正確でさえあれば仕事をこなす時間はたっぷり過ぎるほど貰え、勤務時間も規則正しいものでした。超忙しかった造船部門時代とは異なり、時間の進み方がゆっくり過ぎて胃が痛くなったほどです。それにも徐々に慣れ、読書と英会話のブラッシュアップに力を入れていた時代でもありました。

キャリア②-1海外飛び回り時代

仕事の上での飛躍のチャンスは40代半ばに訪れました。同じ構内にあった関連会社への2年間ほどの出向から戻ると、シアトルのB社への駐在を命じられたのでした。航空機の共同開発のDBT(デザインビルド=設計支援)チャームの一員としての駐在でした。駐在は数年に及ぶ予定でしたが、次に開発予定だった大型旅客機(B747の後継機)の計画が、棚上げになって、結局丸1年で帰国したのでした。その後は、超円高時代に突入し、安い海外のサプライヤーを求めて、海外企業を視察する海外調達チームに入って、米国、欧州、東南アジアの企業を100社ほど見聞する機会に恵まれたのでした。

そうこうしている間に、ドイツの老舗企業との間で、小型旅客機の共同開発案件が湧き上がり数か月のドイツ駐在、それもご破算になって帰国すると、今度はブラジル企業との旅客機開発の基本合意がまとまって、慌ただしくはブラジルに飛んだのでした。結局、ブラジルでのDBT活動は、当初半年予定でしたが駐在は結局丸1年に及び、ようやく詳細設計に入る段階になって帰国出来たのでした。時代は2000年に入っていました。

ドロップアウト②環境屋に脱皮

帰国後半年くらいは、結構考える時間がありました。この時期、会社から30年勤続の旅行クーポンが出たこともあり、妻を伴って欧州旅行に出る2週間の休暇も貰えたのです。(いい会社です)この小旅行には、実は目的がありました。その頃またぞろ興味が増したのが「環境問題」だったのですが、この旅行では環境先進国と言われていたドイツの状況を視察したいと思っていたのです。日本で、ドイツと日本の橋渡しをしていたコンサルタント経由で、北ドイツの環境コンサル会社を紹介して貰い、環境関連施設をいくつか見学する事ができました。当時注目し、見学のポイントとしたのは、色素増感太陽光発電、風力、バイオマス、廃棄物リサイクル施設などでした。

個人的な視察旅行から帰ると、なんと高専卒では異例だった参与への昇進人事を内示されました。その晩、推薦してくれたと思しき工場のトップに返上を申し出ましたが、本社決済が終わっているとの事で一蹴されました。しかし、この時には実は薄々ながら近々のドロップアウトを決意していたのです。その理由は、

理由1)数度の海外駐在で、国際共同開発とは名ばかりで、結局は「国際下請け」であって、リスクは小さいが、メリットも少ないと身を以って感じた。

理由2)ドイツ旅行で、21世紀は環境の世紀であることが確信できた。

理由3)この年に起こった9.11テロによって、実は航空機需要はバブルであった事が証明された。(テロ後旅客が半分に以下に激減した)

キャリア③中小企業時代

と言う訳で、退職は決意したのですが、家族を露頭に迷わす訳にもいかず、かねて環境関連の新製品を開発したいと聞いていた、知り合いの中小企業に職を得たのでした。肩書は「新製品開発室長」でした。給料は2/3になり、部下もたった一人で、彼は豊橋高専豊橋技科大へ進んで、社会人大学院生をしていた「弟子その1」でした。その後の3年間は夢の様に楽しい時代でした。弟子に、論文テーマを見つけてやって、社長に掛け合って海外での学会発表の機会もセットし、めでたく博士号も取らせる事が出来ました。しかし。その企業の社長が代替わりしてしまい、息子である三代目は、実は技術屋ではなく「経営者」であることがはっきりしてきたのです。中小企業の経営者は、自分の代で新たな業を起こすのが「暗黙のルール」の筈なのですが、彼は開発室長の「お手並み拝見」という経営者的な態度を取ったのでした。これでは、誰のためにもならないと判断し、新社長を一歩前に踏み出させるためにも、いくつかの新事業の種を形にした上で、この企業を辞する事にしました。55歳の事でした。

キャリア④再度の学びと環境屋への完全脱皮

さて、組織とのタコ糸を切って、完全なフリーランスともなると結構大変です。先ず収入の種を自分で見つける必要があります。しかし、K重工の退職金のかなりの部分を「自分年金」としてセットしていましたので、十分ではありませんが路頭に迷う心配はありませんでした。雇用保険も貰いながら、先ずは仕事のタネ造りを始めました。先ず、環境に関してより深く学ぼうと思い、放送大学の大学院に入学しました。大学卒でなくても社会経験と小論文で大学院には入れてくれました。専攻は「環境システム科学群」です。勉強したい時には知識がドンドン頭に入るものです。順調に単位を取得し、論文審査も通り、めでたく2年間で修了したのです。仕事はと言えば、2年間は年100日勤務の「特許流通アドバイザー」となり、知財関係もしっかり勉強する事が出来ました。一方では、環境大臣が認定する「環境カウンセラー」になり、同時に環境省ガイドラインを引いた「エコアクション21審査人」にも合格して、企業の環境経営システムのコンサルや審査が行える様になりました。特に営業はしませんでしたが口コミで仕事も増え、生活もやや安定してきたのでした。

この間の仕事の中で、思い出に残っているのは、欧州銀行がスポンサーとなっている企業支援プログラムに応募し、カザフスタンの自動車メーカーの省エネ診断のため、1週間ほど滞在した時の中央アジアの景色です。この自然が美しい国には、是非観光で再訪したいとも思いました。

Uターン

2012年に、知人を通じ、故郷である秋田県に出来た「輸送機コンソーシアム」で、航空機産業の生産技術の勉強会の講師を依頼され、冠婚葬祭の短期帰郷を除けば、40年振りで故郷秋田の産業を見つめる機会ともなりました。もちろん、中部地域から遠く離れた秋田に、航空機産業を興す地の利がある訳もなく、懇親会の席上では、「よほどコスト削減努力をしないと仕事は貰えない」旨を正直に話すしかありませんでした。そこで出たのは、「では我々は東北の田舎で、今後何を作ってメシを食って行けば良いのか」という鋭い質問でした。私の答えは、「これからの時代追い風が吹くのは、再生可能エネルギーしかない」というものでした。遠隔地に住んでいて、絵に描いた餅の事を話しても、理解して貰えないとも思い、この時故郷にUターンする決意を固めたのでした。幸いな事に、妻も同郷であったため、たとえUターンしても、「熟年離婚」は避けられるという見込みがあった事も決め手になりました。

高専との再度の関わり

数か月後、先ずは単身で秋田にUターンして実行した事は「高専訪問」でした。東北6高専の環境関係の研究をされている先生方とコンタクトし、数時間の面談(雑談)をお願いしました。自分の「再エネをテコとした、地方再生」の夢を語り、意見交換をし、その際、高専OBが経営者となっているか、役員となっている企業を数社ずつ紹介して貰いました。○○教授の紹介である事を伝えれば、どこの企業も歓迎してくれました。こうして、可能な限り東北企業の企業訪問や意見交換を実行したのですが、いくつかの企業では、しっかりした技術を持ち、高専との産学連携も上手く行って、成果も上げている事を知り感銘を受けました。

今手掛けている事

Uターンして足元を見渡せば、東北に豊富な「資源」は、再生可能エネルギー源だと確信できました。山形、秋田、青森の海岸沿いには、既に100基以上の大型風車が林立し、更に増加を続けています。一方で水資源やバイオマス資源も豊富です。とりわけ、バイオマス(とりわけ木質エネルギー)は、大規模なものから家庭用規模まで、それなりの規模や技術レベルで利用する事も可能です。2013年に再度視察に出かけた北欧やオーストリアや南ドイツでは、確かにバイオマス利用の産業の基盤と熱利用の技術が確立されていました。そのビジネスモデルは、東北や北海道でもほぼ応用できると確信し、今地元企業を回りながら、バイオマスストーブやボイラの製造に乗り出す企業を見つけ出そうと汗をかいています。地元の木材パネル工場の廃材から、木質ペレットを作る事を助言し、実際に工場も立ち上がったので、先ずは率先垂範ということで、建築中の自宅の給湯・暖房には、バイオマスボイラ+太陽熱の再エネ・ハイブリッドシステムを導入する事にしました。

高専の価値

我々の時代には、「高専とは中堅技術者を養成する場所」であることがお経の様に強調されていました。実際、あのアフリカ北部のテロ事件で奇しくも証明されてしまいましたが、犠牲になった現地駐在の技術者は、10人中3人が高専OBだったのです。工業系の学部がある大学卒者と高専卒者の技術者の割合は、概ね10:1である事を考えると、如何に現場に近い場所で働く高専OBの割合が多いかを物語っていると感じた事件でした。私自身の経験でも、モノ際ばかりを歩いてきた事もあり、モノの構造や修理や製造技術に関してだけ言えば、社内でも誰にも負けないとの自負もあり、それなりに評価もされていたと感じています。だからこそ、英語コミュニケーション力と併せて、広く海外も歩かせてくれたと思うのです。理論だけでモノは作れません。実際に加工する機械や人がモノを作るのですから、モノ際に強い高専(OB)は、社会に不可欠な存在だとも思うのです。

学生に伝えたい事

知識は、それを学びたいと強く欲する時には、まるでスポンジに浸みる水の様に頭に入ってきます。学校での勉強は、メニューを知るくらいのつもりで、広く構えてキーワードだけしっかりと押さえておけば良いでしょう。しかし、何かについて知りたいと感じた時には、是非その背景も含めて深く調べて欲しいのです。しかも、技術者である限りは、その知識が「モノと結び付いた立体的なもの」である必要もあります。語学(第二、第三言語)も重要で、少なくとも一つはコミュニケーションが出来るレベルまで高めてください。将来に亘って必ず身を助けます。習得のコツは単純です。出来る限り長い時間、テキストも見ながらのリスニングを続ける事でしょうか。目安は2,000時間です。やがて、作文ではなく、自分の中からの言葉で「会話」が出来る様になります。
それと、工学以外の得意分野も是非作ってください。3脚ではありませんが、合計3個ならさらに安定して理想です。それが趣味であってもOKで、飯のタネになるかは別問題です。それは、物事を「立体視」するための視座になり得るからです。

またできれば、「お祭りロボコン」からは早々に脱却し、(原発廃炉ロボットなど、社会が渇望する「実用ロボット」の開発で高専の存在価値をアピールして貰いたいとも思っています。